こんにちは!フリースタイルな僧侶たちWeb版の編集部です。
先月に開催した、お坊さんによるWeb説法大会「むちゃぶり法話バトル」。
第2回となる今回のお題は「筋肉」!全国のお坊さんから法話を募集したところ……
10名のお坊さんから10の法話を投稿いただきました!!!
タピオカに続き難しいお題だと思うのですが、果敢に挑戦してくださった僧侶のみなさま、ありがとうございます。
「このお題からお坊さんはこう仏教に繋げるの!?」
「もしかしてこのお坊さんは、お話を通してこんな事を伝えたいのでは?」
と、編集部一同、感銘を受け、また審査員の方々と一緒に考察を繰り返し、投稿いただいたすべての法話を真摯に受け止めさせていただきました。
そして今、そんな10の法話が、3つに絞られました。
この3名の審査員に一人1つ法話を厳選いただきました。
この記事では、選ばれた3つの法話を審査員のコメントとともに公開!
そして、記事最後には読者投票のためのリンクを入れています。そう、ベスト法話を決めるのはあなたの一票!3つの法話の中から、あなたがいちばん良かったと思う法話に投票してください!
さて、今回、筋肉の本質を貫く、第二回ベスト法話はどの法話になるのでしょう?
エントリーNo.1
- お名前:うたうお坊さん
- ご年齢:28歳
- 所属寺院:大分県法音寺
- SNS:Twitter
筋肉と言えば、僕は2年前の7月から毎日筋トレをしています。
なぜ2年前の7月かと言うと、ある出来事がきっかけなんです。
それは"九州北部豪雨"。
あの大雨で被災した地区のガレキ撤去に、
地元のお寺の青年会でボランティアとして伺った時のこと。
青年会の中でも一番若い僕は、
『若いから動けるやろー』と年配のお坊さん達から頼りにされていました。
しかし、
雨水を吸った畳や、大きい家具、
そして何より床下に入り込んだ泥水を永遠と掻き出す作業で、
僕の体はボロボロに。。
なんとかその日の作業を終えたはいいものの、次の日には全く腕が上がらず。首もまわらず。
今まで経験したことのない筋肉痛…いや、
"スーパー筋肉痛"に苦しめられたのでした。
その日も作業を手伝う予定だったのですが、余りの筋肉痛に、
『先輩、申し訳ないんですが、体が痛くて動けません。今日は休ませてください。』
と言って休ませてもらうことになりました。
と、その時
電話に出てくれた先輩僧侶が一言。
『そりゃそうやろ!お前、昨日がんばりすぎやわ〜!なんでもほどほどに、中道(ちゅうどう)でやらんとな。
今日はゆっくり休めばいいわぁ。 』
と、ありがたいお言葉をいただきました。
"中道(ちゅうどう)"とはお釈迦さまの教えです。
王様の息子として生まれたお釈迦さま。
贅沢な暮らしをしても本当の幸せにはなれなかった。
かと言って、体を痛めつける苦行をしても本当の幸せにはなれなかった。
極端なことではなく、真ん中くらいの道をほどほどに進むのが悟りへの道だと気付いたのがこの、中道という教えです。
どれだけ良いことでも、正しいことでも、
やり過ぎてしまうと苦しみを生んでしまいます。
何でもほどほどに、人のペースではなく、
自分のペースでやったほうがいい。
スーパー筋肉痛を通して、このことに気づかされました。
あの日を境に、いつ災害が起こっても手伝いに行けるよう、毎日筋トレをしてます。
でも、たまには休みます。
というかけっこう休みます。
大切なのは"中道"ですから。
審査ありがとうございました!この法話はどのあたりがグッときましたか?
中道(ちゅうどう)ですね。私は自分を追い込んでしまうタイプで。お仕事も筋トレも「毎日ちゃんとやらなきゃいけない」「自分の中で100点を出し続けなきゃ」って思うことが多いんです。でも「何事もほどほどが大事だ」っていうこのお話を聞いて心が楽になりました。
たしかに「日本人は頑張りすぎだ」ってよく言われますよね。ストイックに打ち込むことも大事ですけど、それが自分自身を苦しめることもある……
私はマッチョな仏像が好きで、筋肉に憧れがあるんですけど、筋トレはいつも長続きしなくて……でも、仏様やお坊さんが「自分のペースでいい」って言ってくれたら自身が湧いてきますよね。筋トレのイメージが180度変わりました!
ブームに乗じて筋トレし始めたものの、すぐに挫折してしまったという方もいるはず。そんな筋トレ三日坊主の方を勇気付けられる法話でしたね。
あと、この方が筋トレをされる理由がすごく尊いんです!トレーニングって当たり前のように自分のためにするものだと思ってたんですけど、「人のためのトレーニング」はお坊さんならではですよね。私もこんな心を持てればなぁ。
たしかに、まさに自利利他の筋トレでした。あまり普段は法話を聞くことがないとのことだったのですが、今回たくさんの法話に触れてみて思ったことはありますか?
お坊さんならではのメッセージももちろん感動するのですが、私と同じことで悩んでいる姿を見ると、元気をもらいます。お坊さんも同じ人間なんだって!
エントリーNO.2
- お名前:藤澤彰祐
- ご年齢:32歳
- 所属宗派:浄土真宗本願寺派
- 所属寺院:浄光寺
私たちの体は筋肉で出来ている。心臓も筋肉だ。起きているときも、寝ているときも、嬉しいときも死にたいほどつらいときも、心臓はずっと動いている。動けと命令しなくても、あるいは止まれと強く念じても、私たちの意思に関係なく、ドクン、ドクン、と鼓動している。
生と死の定義は実は曖昧で、これだけ進歩した現代の医療であっても「臨終(死に臨む)」としか断定することは出来ないそうだ。そう言えばお葬式のとき、ご遺体のヒゲが納棺のときよりも伸びていることがある。毛根がまだ生きているのであれば、臨終は完全な死ではないのだろうか。
私は今生きている。生と死の定義さえままならないにも関わらず、こうして生きていると断言できるのも不思議だけれど、けれども私は間違いなく生きている。世界にはたくさんの人が生きていて、これまでたくさんの人が死んできたのに、科学も医療もこれだけ進歩しているのに、生と死の解明はおろか、定義さえままならないのはなぜだろう。私の心臓と、息を引き取った人の心臓と、いったい何が違うのだろう。
ある5歳の男の子の詩がある。保育士の先生が男の子のつぶやきを書き留めて、詩として発表されたものだ。
ぼくの舌動け、というたときは
もう 動いた後や
ぼくより先に
ぼくの舌動かすのは何や?
それは脳だ!と答えたあなたに問いたい。その脳動かすのは何や?
舌も筋肉だ。わずか5才で、この男の子は自分を超えた大きなものに、理解しがたい不思議な力に気付いている。出遇っている。すごい感性だと思う。どうやら、私たちを突き動かし、生かしている力があるらしい。現代の科学では解明できないけれど、私の理解は全然追いつかないけれど、それでもその大きな力はいまここに、私にはたらいている。
ドクン、ドクン。心臓が、鼓動する。不思議としか、言いようがない。これを当たり前と言うのは、あまりにも勿体無いような気がする。
今回投稿された中でも少し異色なこの法話、三浦さんの目からはどのように見えましたか?
素晴らしい法話でした。5歳の男の子の詩がよくできていて、生かされている感覚と筋肉、この4行の中にすべて表現されてますよね。文体も話し言葉ではなく、読む者に問いを投げかけてくるようなタッチが新鮮で、生の声でも聞いてみたいと思いました。
特に印象に残った部分はありますか?
「脳を動かすのは何や?」にはドキッとしましたね。読む者に考えさせる時間を与えて、しかも、それが何かを答えず、あえて余白を残すという構成には驚きました。最後のフレーズも秀逸です。
一般的な法話では、仏の教えが答えとして説かれることが多いですが、こちらの法話はあえて明かされないまま終わりました。普通の法話なら「実はそれは仏さまの……」と付け加えたくなるところなのですが。
文末の「あまりにも勿体無いような気がする」が「じゃあ、それが仏なんじゃないかな」と読む者に想像させますよね。もはや、こうやって仏さまを想像させることも、仏の「他力」を表現しているんじゃないかとすら……深読みしすぎかもしれないですが(笑)
たしかに、もはや何が法話なのか、こちら側も問われるような法話になっていたと思います。
もしこの法話をお医者さんが話していると脳科学の話だと思う人もいるかもしれない。でも、話しているのはお坊さんで、だからこそ、聞き手に仏教的な意味を想像させるんですよね。かなり革新的な法話だと思いました。
エントリーNo.3
- お名前:Dr.Bozu
- ご年齢:36歳
- 所属宗派:日蓮宗
「筋トレとは人生である」ぶっちゃけ、筋トレをしている人に法話の必要性は低い。悩んだり、不健康な生活をしている人が少ないからだ。
筋トレと知識は同じだ。筋トレすれば筋力がアップし、勉強すれば知識が増える。10年間筋トレしなかったとしても、筋肉が覚えているので早く筋肉がつく。10年間使わなかった知識も、早く思い出して覚えられる。年老いていくと筋力が衰えるように知識も思い出せなくなっていく。
人生は筋トレの様に小さな積み重ねが結果となって今に反映され、仏教では縁起や因果と言われている。原因があり、結果があるのだ。人生において必ず訪れる結果、それは「死」である。私は生き様が死に様だと考えている。筋トレをして最後まで元気で歩いているのと、ボケてベットの上で一日過ごしているのとどちらが幸せだろうか?そして、自分が死ぬときに来てくれる人は誰か?良いことをしていれば自ずと人は集まって来てくれるだろう。悪いことをして人の恨みを買っていれば誰も来ないだろう。
また善い行いをしようとすると偽善者と揶揄されることもある。たとえ偽善者と言われても、良いことをしているのならその行いは「善」なのである。 人の評価はあまり気にしないに限る。善い行いをすることを仏教では「功徳を積む」という。ただ、善意であっても押し付けるのは厳禁だ。「してあげた」というと、何かしらの見返りを求めてしまうため、「させていただいた」という気持ちを持って欲しい。見返りを求めない行為、それが「功徳」なのである。その例は「子育て」だと思っている。
筋トレも人生も計画が必要だ。調子が悪ければダンベルは上がらないし、フォームが悪ければ体を痛める。調子が悪ければ仕事は捗らないし、やり方が悪ければ失敗して信用を失う。改善点を見つけ、ときには休むことも必要だ。無理をしても良い結果にはならない。
最後にもう一度言わせてもらう。
「筋トレとは人生である」
こちらのご法話を選ばれた決め手は何だったのでしょう?
一撃でしたね。「筋トレは人生である」というフレーズが最高です。日々続けていく筋トレを縁起や因果に繋げて、人生として展開されている点にすごく心惹かれました。
ジョンさんのような筋トレのプロフェッショナルでも、やはり一回のハードワークだけでは上手くいかないものですか?
そうですね、それだと長く続きませんし「超回復」といって、激しいトレーニングをした後にしっかり休んでまたトレーニングをする、この繰り返しが一番筋力を向上させます。つまり、筋肉には計画が必要なんです。たしかに、これは人生にも言えることですよね。
功徳など、仏教的な意味合いはわかりましたか?
トレーニングは誰かに言われてやるものではなくて、自分の体を良くしようと、あえてやる行為。それはDr.Bozuさんがおっしゃるように功徳を積むことと同じです。功徳と言われてもイメージしづらいですけど、体に蓄積されていく筋肉と結びつけたら理解しやすかったです。
ちなみに、ジョンさんも「筋トレは人生だ」と日頃から思っていらっしゃったんですか?
実はそうはあまり思っていなかったんです。でもこの法話を読んで、「あっ、筋トレって人生だ!僕が言いたかったのはコレ!」と思いました。日々の積み重ねが良い筋肉にも繋がります。筋肉も脂肪も、日々の習慣の結晶のようなもの。マジ人生です。
読者投票で第2回のベスト法話が決まる…!
いかがでしたか。今回はこちらの3つの法話が審査員により選ばれました。
さて、3つの法話の中から読者の皆様からの投票を経て、ベスト法話が決定します。
読者投票の前に、もう一度、3つの法話を再掲します。
エントリーNO.1・2・3の中から、あなたが一番良かったと思う法話はどれですか?
(もうすでに決まっている方は、記事の最下部までスクロールして、アンケートフォームに記入してください!)
エントリーNo.1
- お名前:うたうお坊さん
- ご年齢:28歳
- 所属寺院:大分県法音寺
- SNS:Twitter
筋肉と言えば、僕は2年前の7月から毎日筋トレをしています。
なぜ2年前の7月かと言うと、ある出来事がきっかけなんです。
それは"九州北部豪雨"。
あの大雨で被災した地区のガレキ撤去に、
地元のお寺の青年会でボランティアとして伺った時のこと。
青年会の中でも一番若い僕は、
『若いから動けるやろー』と年配のお坊さん達から頼りにされていました。
しかし、
雨水を吸った畳や、大きい家具、
そして何より床下に入り込んだ泥水を永遠と掻き出す作業で、
僕の体はボロボロに。。
なんとかその日の作業を終えたはいいものの、次の日には全く腕が上がらず。首もまわらず。
今まで経験したことのない筋肉痛…いや、
"スーパー筋肉痛"に苦しめられたのでした。
その日も作業を手伝う予定だったのですが、余りの筋肉痛に、
『先輩、申し訳ないんですが、体が痛くて動けません。今日は休ませてください。』
と言って休ませてもらうことになりました。
と、その時
電話に出てくれた先輩僧侶が一言。
『そりゃそうやろ!お前、昨日がんばりすぎやわ〜!なんでもほどほどに、中道(ちゅうどう)でやらんとな。
今日はゆっくり休めばいいわぁ。 』
と、ありがたいお言葉をいただきました。
"中道(ちゅうどう)"とはお釈迦さまの教えです。
王様の息子として生まれたお釈迦さま。
贅沢な暮らしをしても本当の幸せにはなれなかった。
かと言って、体を痛めつける苦行をしても本当の幸せにはなれなかった。
極端なことではなく、真ん中くらいの道をほどほどに進むのが悟りへの道だと気付いたのがこの、中道という教えです。
どれだけ良いことでも、正しいことでも、
やり過ぎてしまうと苦しみを生んでしまいます。
何でもほどほどに、人のペースではなく、
自分のペースでやったほうがいい。
スーパー筋肉痛を通して、このことに気づかされました。
あの日を境に、いつ災害が起こっても手伝いに行けるよう、毎日筋トレをしてます。
でも、たまには休みます。
というかけっこう休みます。
大切なのは"中道"ですから。
エントリーNO.2
- お名前:藤澤彰祐(ふじさわしょうゆう)
- ご年齢:32歳
- 所属宗派:浄土真宗本願寺派
- 所属寺院:浄光寺
私たちの体は筋肉で出来ている。心臓も筋肉だ。起きているときも、寝ているときも、嬉しいときも死にたいほどつらいときも、心臓はずっと動いている。動けと命令しなくても、あるいは止まれと強く念じても、私たちの意思に関係なく、ドクン、ドクン、と鼓動している。
生と死の定義は実は曖昧で、これだけ進歩した現代の医療であっても「臨終(死に臨む)」としか断定することは出来ないそうだ。そう言えばお葬式のとき、ご遺体のヒゲが納棺のときよりも伸びていることがある。毛根がまだ生きているのであれば、臨終は完全な死ではないのだろうか。
私は今生きている。生と死の定義さえままならないにも関わらず、こうして生きていると断言できるのも不思議だけれど、けれども私は間違いなく生きている。世界にはたくさんの人が生きていて、これまでたくさんの人が死んできたのに、科学も医療もこれだけ進歩しているのに、生と死の解明はおろか、定義さえままならないのはなぜだろう。私の心臓と、息を引き取った人の心臓と、いったい何が違うのだろう。
ある5歳の男の子の詩がある。保育士の先生が男の子のつぶやきを書き留めて、詩として発表されたものだ。
ぼくの舌動け、というたときは
もう 動いた後や
ぼくより先に
ぼくの舌動かすのは何や?
それは脳だ!と答えたあなたに問いたい。その脳動かすのは何や?
舌も筋肉だ。わずか5才で、この男の子は自分を超えた大きなものに、理解しがたい不思議な力に気付いている。出遇っている。すごい感性だと思う。どうやら、私たちを突き動かし、生かしている力があるらしい。現代の科学では解明できないけれど、私の理解は全然追いつかないけれど、それでもその大きな力はいまここに、私にはたらいている。
ドクン、ドクン。心臓が、鼓動する。不思議としか、言いようがない。これを当たり前と言うのは、あまりにも勿体無いような気がする。
エントリーNo.3
- お名前:Dr.Bozu
- ご年齢:36歳
- 所属宗派:日蓮宗
「筋トレとは人生である」ぶっちゃけ、筋トレをしている人に法話の必要性は低い。悩んだり、不健康な生活をしている人が少ないからだ。
筋トレと知識は同じだ。筋トレすれば筋力がアップし、勉強すれば知識が増える。10年間筋トレしなかったとしても、筋肉が覚えているので早く筋肉がつく。10年間使わなかった知識も、早く思い出して覚えられる。年老いていくと筋力が衰えるように知識も思い出せなくなっていく。
人生は筋トレの様に小さな積み重ねが結果となって今に反映され、仏教では縁起や因果と言われている。原因があり、結果があるのだ。人生において必ず訪れる結果、それは「死」である。私は生き様が死に様だと考えている。筋トレをして最後まで元気で歩いているのと、ボケてベットの上で一日過ごしているのとどちらが幸せだろうか?そして、自分が死ぬときに来てくれる人は誰か?良いことをしていれば自ずと人は集まって来てくれるだろう。悪いことをして人の恨みを買っていれば誰も来ないだろう。
また善い行いをしようとすると偽善者と揶揄されることもある。たとえ偽善者と言われても、良いことをしているのならその行いは「善」なのである。 人の評価はあまり気にしないに限る。善い行いをすることを仏教では「功徳を積む」という。ただ、善意であっても押し付けるのは厳禁だ。「してあげた」というと、何かしらの見返りを求めてしまうため、「させていただいた」という気持ちを持って欲しい。見返りを求めない行為、それが「功徳」なのである。その例は「子育て」だと思っている。
筋トレも人生も計画が必要だ。調子が悪ければダンベルは上がらないし、フォームが悪ければ体を痛める。調子が悪ければ仕事は捗らないし、やり方が悪ければ失敗して信用を失う。改善点を見つけ、ときには休むことも必要だ。無理をしても良い結果にはならない。
最後にもう一度言わせてもらう。
「筋トレとは人生である」
以上、3つの法話になります。あなたが思うベスト法話、決まりましたでしょうか?
はたして、第2回むちゃぶり法話バトル、ベスト法話に選ばれるのは……
前回優勝者、エントリーNO.1の うたうお坊さん上人か!?
それとも、エントリーNO.2の 藤澤彰祐 上人か!?
はたまた、エントリーNO.3の Dr.Bozu 上人か!?
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※回答権は一人一回のみ
※回答後の編集不可
※回答期間:11月11日(月)23:59まで
はたして、第2回ベスト法話の栄冠はどなたに輝くのか……? 結果発表をお楽しみに……!!!